「自分の頭の悪さ」と向き合ってみる
このところ、自分の頭の悪さにやるせなくなるときがある。
「頭が悪い」って一言で言うと簡単だけど、もう少し具体化すると以下のような状況。
1.「違和感」を持つことができない
今の自分の仕事は、先方が計上してくる数字の妥当性を検証したり、ロジックの適切性を確認したりすることに肝がある。だが、この仕事をする上では、相手の数字や説明に「違和感」を持つことが欠かせない。
それは例えば、「あなたはAというが、実際はBではないか」といった自分なり物差し(知識、経験に基づく基準)との比較を通じた検証であったり、「あなたは『AだからB』と説明するが、Bの他にもCやDと言った代替策が取り得るではないか」といった提案だったりするのだが、これができない。
相手に説明を受けると、それに「違和感」を感じずに、そのまま鵜呑みにしてしまい、後で上司に詰めの甘さを指摘されてしまう。
2.知識が「つながって」いない
なぜ違和感を持つことができないか。そもそも自分なりの「物差し」が欠如していることも一因だ。ただ、自分の場合、必要な知識を持っていてもなお、適切な場面でそれを引き出せないことが多く、これが「違和感」がぱっと浮かばない原因になっている。
おそらく、それは知識が頭の中でバラバラに「浮いて」いて相互につながっていないから。色々な案件、数字がバラバラに頭に入っているから、ある案件Aを目の当たりにしても、「この案件は案件Bと関連しているな」とか「この案件は案件Cと類似しているにも関わらずなぜこんなに数字が大きいのだろう」とかいう比較、連想に結びつかない。
この結果、案件について質問を受けたときも、「Aとは何か?」みたいなクイズみたいな質問には答えられても、「ではそれはなぜか」、「他のBとなぜ扱いが異なるのか」みたいな質問にはあっさりお手上げになってしまう。
3.日ごろから「考えて」いない
では、なぜ知識がバラバラなのか。色んな教科をぶつ切りで教えられた学生時代の思考の癖が抜け切れていないだけかもしれないけど、誰しも学校教育を受けているのだから、それは言い訳にしかならない。やはり「考えて」いない、ということが根源的にはあるように思われる。
例えば、本を読むとき自分は、どうしても素直に読みすぎる。「納得できなかった」とか「違和感がある」といった読後感を持つことはほとんどない。この問題に気付いたのは今から5年前、この文に出会ってからだった。特に以下の箇所は鮮烈に印象に残った。
本を「読む」のは娯楽であって、勉強ではない。学習ではない。理解でもない。
なんていうか、本を「読む」ってのは、CDをCDプレーヤーにかけているようなものだと思う。
CD=本、CDプレーヤー=脳、って感じ。
本を読んでいる間、自分の脳内では、他人の思考が再生されているだけで、自分自身は考えていない。本を読むというのは、他人の思考をなぞることでしかなく、その間、自分は「思考」していない。
ほんとうに「思考する」というのは、「過去の自分の思考」や「他人の思考」に「逆らって」思考する、すなわち、新しい脳神経回路に通電し、新しい脳神経パターンを開墾することであって、単にすでに踏み固めた道をなぞることではない。単に他人の発言をリピートするのが発言でなく、過去に自分が何度も発言していることを繰り返すのが発言でもないことと同じだ。
この文章に出会ってから5年が経つが、自分の本の読み方は根本的には変わっていない。日頃の生活でも、考える時間が少ないように思われる。
さて、どう対策したものか、と電車の中で思いながら、下のエントリに出会う。綺麗ごとが無くて、今のところ一番肚に落ちる内容なので、備忘としてリンクを貼って残しておく。