「受動型アスペルガー」の存在を知る(傾向編2:いつでもニコニコ)
前回書いた通り、自分には、受動型アスペルガーっぽいところがある。そんな自分の特徴でもあり、おそらく受動型アスペルガーの人に多くあてはまると思われる傾向が、「いつもニコニコしている」ことだ。
受動型アスペルガーの特徴として、「表情が乏しい」とか「喜怒哀楽が表に出づらい」とか本に書かれていることがあるけど、そこで能面のように無表情な顔を思い浮かべるのは早計で、話はそんなに単純ではないと思う。
そうではなく、受動型アスペルガーの場合、これまでの人生の中で感じてきた、「あれ、自分ってちょっと人と違う?」という小さな違和感・コンプレックスや、「人と上手くコミュニケーションできない」という苦手意識を一生懸命隠そうとして、意識的に、あるいは無意識的に、「笑顔」を顔に貼りつけていることが多いんじゃないかと思う。
自分自身もこれまでそうしてきた。学生時代、寄せ書きをもらうと、必ずと言ってよいほど、「笑顔が印象的でした」という言葉に出会ってきたし、通信簿にも「いつもニコニコしている」と書かれてきた。今でも、普通に振る舞っているいるつもりなのに、「楽しそうだね」と言われることがある。
じゃぁ、受動型アスペルガーが表情豊かかというと、やはりそれは違う気がする。一つの表情を仮面のように貼りつけているという意味で、やはりそれは「表情が乏しい」のであり、喜怒哀楽のうち「喜」だけを常に貼りつけているという意味で「喜怒哀楽が表に出づらい」ことに何ら変わりはないのだから。
楽しいから笑っている、嬉しいから笑っている「天然」の自然な笑顔ではなく、自分の小さな違和感や苦手意識を必死で隠して、社会と折り合いを付けていくため、自分を守るためにしっかりと貼りつけている、「人工の」笑顔。周囲に対して、「私は感情のある普通の人間です」、「私を攻撃しないでください」、「皆さんとコミュニケーションする用意があります」、などとアピールするための「記号」あるいは「顔文字」としての笑顔。たぶんそれが、受動型アスペルガーの笑顔だ。
受動型アスぺの人は、おそらく、一見すると穏やかな微笑を浮かべた「良い人」に見える。これは、アジア圏、特に日本では受け入れられやすい表情だ。だけど、それは人工物だから、よくよく見ると「目が笑っていない」ことが多いし、「胡散臭い」と感じられることだってある。自分自身、そうしたことを言われることがある。
それでも「笑顔」の仮面を外すのは怖い。仮面を取ったらのっぺらぼうかもしれないから。
誰かにイラッとしたらその人の「行動の動機」を言語化して、自分のものと比べてみる
1.人の行動を動かす「動機」
一人一人の行動には、その行動の原動力となっている幾つかの「動機(欲求)」があって、人によってそのウェイトや優先順位付けが全然違っている。
ある人は「自己顕示欲」が主な動機だし、また別のある人は「金銭欲」であろう。日本人の場合、「承認欲求」がメインの動機になっている人も多いと思う。
こうした動機は、「健康欲」、「出世欲」、「食欲」、「性欲」、「睡眠欲」とかだけじゃなく、「ルールを守りたい欲」、「楽したい欲」、「自分の思い通りにやりたい欲」、「一人にしてほしい欲」、「場の空気を乱したくない欲」みたいに、きちんとした名前を付けづらい動機も含めると無数にあるけれど、 ある個人の行動に有意な影響を及ぼす動機の数は、おそらくそんなに多くはない(直観的にはせいぜい5個前後)と思う。*1
2.「近い」価値観と「遠い」価値観
この動機のウエイトや優先順位付けの集合(=その人の「価値観」)は十人十色だが、その中でも「近い」価値観と「遠い」価値観はある。以下のA~Cさんの行動の動機が、以下のような優先順位付けだったとする。
Aさん Bさん Cさん
1位 自己顕示欲 承認欲求 楽したい欲
2位 承認欲求 出世欲 節約欲
3位 名誉欲 健康欲 食欲
この場合、おそらくAさんとBさんは、相互にイラッとすることは少ないだろう。両者の動機の間に多少の差異は違えど、基本的には、いずれも社会とのつながりに重きを置いており、価値観が「近い」からだ。
他方、AさんとCさんが分かりあうことは難しい。Aさんは社会に認められることに重きを置いており、そのためならハードワークも、必要な出費も辞さないであろうが、Cさんの欲求である「楽したい欲」や「節約欲」はこれと真逆で、価値観が「遠い」からだ。
3.誰かの行動にイラッとしたら
誰かの行動にイラッとしたら、自分はその人の行動の基になっていると考えられる「動機」を3つ考えて、書き出してみることをお勧めする。
それが済んだら、今度は自分の日々の行動を規定していると考えられる動機を3つ書き出して、両者を比べてみるのだ。そうすれば気づくだろう。根本的には、自分の価値観とその人の価値観が「遠い」からイラッとしていることに。
この手法を取れば、「イラッ」の原因が言語化・視覚化され、ただの「イラッ」をかなり明瞭に表現できる。
この方法は、会社や学校で接する同僚・上司、クラスメート、親子・親戚、近隣住民等、生活で接するあらゆる人に使えるが、個人的には、特に「親子間」で相手の行動に「イラッ」としたときに使うことをお勧めする。
他人同士の付き合いでは、お互いの価値観が異なることがある程度暗黙の了解になっているため、お互いに自分の価値観を前面に押し出してこないが、親子の場合、「血がつながっているから」という理由で、親子間の価値観が「近い」と無意識に思い込んでいることがままある。本当に価値観が近ければ何の問題もないが、もし親子関係で「イラッ」としたら、この方法で相手と自分の行動動機を考えてみてほしい。
地理的に近くても全く価値観が異なる国があるように、親子と言えど、意外と価値観が遠いかもしれないのだから。
「受動型アスペルガー」の存在を知る(対策編1)
前回書いた通り、自分には「受動型アスペっぽい」特徴・傾向がある。
自分が「受動型アスペルガー」かどうか、より正確には、仮に自分が精神科を受診したら「アスペルガー」と診断されるのか、それは正直どうでも良い。ただ、少なくとも自分にはそういう「傾向」がある。そうであるならば、これを改善して、より幸せな人生を送りたい。今日はそのための方向性を考える。
改善に当たり、まず何よりも大切だと思うのは、「改善すべき特徴」を選択し、その克服に集中することだと思う。受動型アスぺっぽい特徴を満遍なく克服しようとすると、それこそアスぺっぽい人が最も苦手とするマルチタスクになってしまう。
だから、まずは改善すべき特徴を絞り込む。自分の場合、まず克服したい傾向として、「自分から話すことが苦手」であることを挙げる。
自分から話すことが苦手
受動型アスぺは何においても受け身だから、会話では聞き役に回ることが多い。
勿論、会話の相手が一方的に話すタイプならこの問題は顕現化しないが、そんなことは滅多にあるものではなく、むしろ、何らかの発話をこちらも求められるのが普通だろう。
こういう場面で、自分に会話のパスが飛んできたとき、受動型アスぺっぽい人は、普通のアスぺルガーの人以上にストレスを感じるのではないか。なぜなら、受動型アスペルガーの人は、①会話が苦手というアスペルガー一般の特性に加えて、受動型アスペルガー特有の②心理的圧迫感と、③話題が限定的という問題を抱えているからだ。
①会話が苦手:受動型に限らず、アスペルガーっぽい人は、会話(一方的に話すor聞くのではなく、言葉をキャッチボールする本当の「会話」)が苦手だ。文脈に応じた曖昧な言葉や指示語の理解、多方向に展開される話題への臨機応変な対応、いずれもアスペルガーが苦手とするもので、会話の参加者が増えると難度は指数関数的に上がる。なにせ、耳で聞いた情報を長時間、大量に覚えておかねばならないのだから、あっという間に脳のワーキングメモリを消費してしまうのだ。
②心理的圧迫感:受動型は周囲の空気を過剰に読むので、会話のパスが自分に飛んでくると、「気の利いたことを言わなければならない」というプレッシャーを強く感じてしまう。「場の空気を無視して話す」という一般的なアスペルガーのイメージと大きくかい離している部分だ。
③話題が限定的:自分なりの好みや価値観に対して無自覚だから、人に語れるような趣味や嗜好がない。同じ理由で、過去の思い出や世間の情報も、受け身で平板にのぺーっと捉えている(自分なりのフィルターやアンテナがない)から、ハイライトを当てて語ることができない。ここも、「自分の関心事項を一方的に話す」という一般的なアスペルガーのイメージと大きくかい離している。
要は、受動型アスぺの人は、ただでさえ会話がもともと苦手なのに、「場の空気を読んで気の利いたこと言わなきゃ」、「でも面白い話題もない」という、かなり厳しい状況に置かれる。で、結局大したこと言えないで、ストレスを感じる、という構造になっている。
自分の場合、事務職なので、仕事中はあまりこの手のストレスを感じない。もし営業職だったら大変なことになっていたかもしれないが。ただ、ランチのときだったり飲み会の席になったりすると、一気にこの欠点が頭をもたげてくる。
話題がないから会話に積極的に入っていけない、適当に相槌を打つことしかできない、ましてや場を盛り上げたりすることなんてできない。飲み会の後、なんとなく自己嫌悪感を抱いて帰る。これはじわじわと自分の自尊感情を蝕んでいく。
では、これをどう克服するか。それを考えたい。
「受動型アスペルガー」の存在を知る(傾向編1)
大学生の頃から、「自分ってもしかしてアスペルガー症候群では?」と思うことがあった。自分の場合、「部屋の片づけ」が何よりも苦手で、本や衣類が床やベッドの上に散乱し、足の踏み場もなくなる、という習性があった。当時、アスペルガーの典型的な症状のイメージが「片付けられない」だったので、自分にも、少なくともアスぺっぽい傾向がある、とは漠然と思っていた。
社会人になると、「片付けが苦手」に加えて、「段取りが苦手」とか「マルチタスクができない」、「耳で聞いた情報を記憶できない(記憶力の偏り)」といった、アスぺの社会人が持つ典型的な症状が、自分にも該当するな、と思う場面があった。
もっとも、心のどこかで、「とはいえ、自分はアスペではないだろう」と思っていた。だって、アスぺの典型的な症状とされる、多動(多動性)とか、空気を読まない衝動的な発言や癇癪(衝動性)とかが、自分には全くなかったから。
ただ、アスペルガーと一概に言っても色んなタイプがあることを知った。そして、今日、その中の「受動型アスペルガー」があまりに自分にフィットし過ぎていることに衝撃を受けた。受動型のアスぺが有する特徴は、まとめると以下のような感じ。
1.自己認識不全*1
一言で言うと、自分で自分のことがよく分かっていない。
- 自分の気持ちが分からない。⇒該当。社会のことや人のことを聞かれるよりも、自分のことを聞かれる方が答え辛い。
- 自分の体調が分からない。⇒該当。暑さ寒さにかなり鈍感だし、快不快にも鈍感。
2.主体性の欠如*2
1.の自己認識不全の結果として、万事「人に合わせる」ようになる。
- 過剰に周囲に適応しようとする⇒該当。話は基本的に相手に合わせる。
- (社会への適応を指向する結果)「普通」であることに拘る。⇒該当。食べ物や服を選ぶ時も「定番」が大好き。
- 空気を読むことに拘る。⇒該当。人と話すときは、その場が丸く収まることを大事にする。そのために話の内容や理解が多少曖昧になっても構わないと考えている。
- 自分から積極的に人と関わろうとはしない。ただし、誘われれば関わるので、場合によっては「人づきあいが良い」ように見える。⇒該当。自分から飲み会を開くことはほとんどないが、誘われれば基本的に行く。
- 話は聞き役に回ることが多い⇒該当。
- 人の言うことを素直に受け入れる⇒該当。
- 空気に流されがち⇒該当。
3.アスペルガー一般の特徴
1.と2.に加えて、当然、以下のようなアスペルガー一般の特徴は備えている。
- コミュニケーションが苦手
- 臨機応変な対応が苦手
- マニュアル通り仕事をするのが得意
この受動型アスぺの特徴は、一見、社会に溶け込んでいること。大人しいし地味だけど、「良い人」として、一定程度社会に受け入れられるであろうこと。ただ、そこはやはり無理して社会に適応している部分があるため、内面的には疲弊していること。
もう、自分のことを言われているとしか思えないぐらい、しっくりと来る。「これだ」という感覚がある。「ではどうすればもっと生きやすくなるか」は、自分を救うための次回の課題にして、今日はこの感覚を胸に抱いて寝ることにする。
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*1:この点については、以下のブログがとても参考になる。特に、「(受動型アスぺの人は)「自分はいったい何に興味があるのか」という部分で、受け身になってしまい、自分のことを理解する技能が低いことが大きなデメリットとなっています。」という部分ははっとさせられる。
受け身の発達障害。「わからない」習性に苦しみ無気力へ。自分を掘り下げることで解決を探れます。|スカイのブログ
*2:この点については、以下のブログがとても参考になる。
「自分の頭の悪さ」と向き合ってみる
このところ、自分の頭の悪さにやるせなくなるときがある。
「頭が悪い」って一言で言うと簡単だけど、もう少し具体化すると以下のような状況。
1.「違和感」を持つことができない
今の自分の仕事は、先方が計上してくる数字の妥当性を検証したり、ロジックの適切性を確認したりすることに肝がある。だが、この仕事をする上では、相手の数字や説明に「違和感」を持つことが欠かせない。
それは例えば、「あなたはAというが、実際はBではないか」といった自分なり物差し(知識、経験に基づく基準)との比較を通じた検証であったり、「あなたは『AだからB』と説明するが、Bの他にもCやDと言った代替策が取り得るではないか」といった提案だったりするのだが、これができない。
相手に説明を受けると、それに「違和感」を感じずに、そのまま鵜呑みにしてしまい、後で上司に詰めの甘さを指摘されてしまう。
2.知識が「つながって」いない
なぜ違和感を持つことができないか。そもそも自分なりの「物差し」が欠如していることも一因だ。ただ、自分の場合、必要な知識を持っていてもなお、適切な場面でそれを引き出せないことが多く、これが「違和感」がぱっと浮かばない原因になっている。
おそらく、それは知識が頭の中でバラバラに「浮いて」いて相互につながっていないから。色々な案件、数字がバラバラに頭に入っているから、ある案件Aを目の当たりにしても、「この案件は案件Bと関連しているな」とか「この案件は案件Cと類似しているにも関わらずなぜこんなに数字が大きいのだろう」とかいう比較、連想に結びつかない。
この結果、案件について質問を受けたときも、「Aとは何か?」みたいなクイズみたいな質問には答えられても、「ではそれはなぜか」、「他のBとなぜ扱いが異なるのか」みたいな質問にはあっさりお手上げになってしまう。
3.日ごろから「考えて」いない
では、なぜ知識がバラバラなのか。色んな教科をぶつ切りで教えられた学生時代の思考の癖が抜け切れていないだけかもしれないけど、誰しも学校教育を受けているのだから、それは言い訳にしかならない。やはり「考えて」いない、ということが根源的にはあるように思われる。
例えば、本を読むとき自分は、どうしても素直に読みすぎる。「納得できなかった」とか「違和感がある」といった読後感を持つことはほとんどない。この問題に気付いたのは今から5年前、この文に出会ってからだった。特に以下の箇所は鮮烈に印象に残った。
本を「読む」のは娯楽であって、勉強ではない。学習ではない。理解でもない。
なんていうか、本を「読む」ってのは、CDをCDプレーヤーにかけているようなものだと思う。
CD=本、CDプレーヤー=脳、って感じ。
本を読んでいる間、自分の脳内では、他人の思考が再生されているだけで、自分自身は考えていない。本を読むというのは、他人の思考をなぞることでしかなく、その間、自分は「思考」していない。
ほんとうに「思考する」というのは、「過去の自分の思考」や「他人の思考」に「逆らって」思考する、すなわち、新しい脳神経回路に通電し、新しい脳神経パターンを開墾することであって、単にすでに踏み固めた道をなぞることではない。単に他人の発言をリピートするのが発言でなく、過去に自分が何度も発言していることを繰り返すのが発言でもないことと同じだ。
この文章に出会ってから5年が経つが、自分の本の読み方は根本的には変わっていない。日頃の生活でも、考える時間が少ないように思われる。
さて、どう対策したものか、と電車の中で思いながら、下のエントリに出会う。綺麗ごとが無くて、今のところ一番肚に落ちる内容なので、備忘としてリンクを貼って残しておく。
判断「過程」を言語化する難しさ
最近、「判断」を求められる場面が、少しずつ仕事の中で増えてきている。
AかBかの判断をするとき、直観で結論だけを示せば良いのなら、まだ何とかなる。
でも、今の自分の置かれている環境ではそうはいかない。
判断の「根拠」、言い換えるとA、あるいはBを選ぶに至った判断「過程」を示すことが求められる。これが自分にとって容易ではない。
でも、明確な判断過程を示すことさえできれば、最終的な判断結果はそこから自ずと導かれるおまけの様なもののはずである。判断の肝は「結果」ではなく、「過程」の側にある。だから、「容易ではない」と、これを放置するわけにもいかない。
今日は、まずその原因を言語化することで、判断力を身に着ける足掛かりにしたい。
1.練習不足
1つ目の理由は至って単純で、要は「練習不足」。
振り返ってみると、これまでの人生で「判断」を求められ、しかもその「過程」まで示すことが求められる経験は限られていた。
学校の勉強では、単なる知識だけで対応できる場面も多々あったし、判断を問われる場合(例:法律の合憲/違憲の判断を問われる問題)でも、判断に至るまでの定型化された過程(例:違憲審査基準の設定→あてはめ)をトレースすることが多かったから、判断過程を自分の頭の中で構築する場面はやはり限られていたように思う。
会社でも、若手でいるうちは、判断に必要な材料を提供することが仕事の中心で、判断そのものを求められる場面がそもそも限られていた。
2.「物差し」の欠如
2つ目の理由は、上の経験不足とも相俟って、判断を下す際の「判断基準(=物差し)」が自分に欠如していること。言語化された判断基準がないから、個々の判断がアドホックになり、自分の判断過程に自信を持つことができない。
「過去の取扱いとの一貫性を重視する」とか「事実との整合性を重視する」とか、判断に当たっては、自分なりの判断基準が必要になるが、自分にはこれが無い。いや、抑々、こうした判断基準の源になる「このような仕事をしたい」とか「このような職業人でありたい」というビジョンが欠落している。
あらゆる考え方に対して客観的であり過ぎて、特定の判断基準を取ることができない。それはより根源的には、自分の価値観なり美学なりが欠落していることに由来している。
3.臆病さ
3つ目の理由は、自分が「間違う」ことに対して臆病であること。
特定の判断を「直観」に基づいて、あるいは「権威」をバックに根拠なく下せば、その判断に対して相手は反証しようがない。
しかし、判断過程を言葉で正確に表現すればするほど、それは相手にとっては反証可能性が高まり、自分が「間違う」可能性が高まることを意味する。
自分の場合、これを極端に恐れていて、判断過程を示すことを躊躇してしまう。
と、このあたりが差し当たり思いつく原因だ。まだ、曖昧な点も多いが、やはり言語化によって、自分の問題点に自覚的になれる。
不安や憂鬱を感じたときは、原因の「言語化」が効果的
このブログを始めた理由は「自分の思考や感情を『言語化』したい」から。言語化のメリットは挙げれば切りがないのだけど、今日はその一例として、不安や憂鬱を感じた時の「言語化」の効用について。
朝電車に乗っている時、あるいは今日みたいな日曜の夜、「何となく」会社に行きたくなく、憂鬱な時がある。こういう時、ちょっと前までの自分は、ポジティブな音楽を聴いたり「勇気の出る動画」の類をYoutueで観ていた。
しかし、この方法は、自分にとってはあまり効果的ではなかった。「憂鬱」とは異なる別の感情を刺激して、憂鬱の存在をまぶしても、一時的に憂鬱な気分が和らぐだけで、結局、余計に疲れてしまっていた。
むしろ最近は、「何となく憂鬱」の「何となく」に真正面から向き合って、行きたくない理由を言語化するようにしている。
自分の場合、行きたくない理由を言語化すると、「Aという仕事を来週内に終えられるか分からない」、「Bという件の説明をうまく終えられるか分からない」、あるいは、「Cという仕事の段取りが見通せていない」といった形で、不安や憂鬱の原因が「将来の不確実性や不透明性」に帰着することが多いことに気付く。
それに気付いたからと言って、不安が綺麗さっぱり解消されるわけではない。だが、少なくとも、不安を等身大のものとして客観視することで、幾分不安が和らぐ。「もやもや」や「ぐるぐる」としか表現できていなかった得体のしれない不安や憂鬱が、理性によって認識され、一応統御されている、という感覚を持つことができる。それだけでも、自分にとって、言語化の効用は十分に大きい。