Output Note

思考や感情を明瞭に言語化するために。

判断「過程」を言語化する難しさ

最近、「判断」を求められる場面が、少しずつ仕事の中で増えてきている。

AかBかの判断をするとき、直観で結論だけを示せば良いのなら、まだ何とかなる。

でも、今の自分の置かれている環境ではそうはいかない。
判断の「根拠」、言い換えるとA、あるいはBを選ぶに至った判断「過程」を示すことが求められる。これが自分にとって容易ではない。

でも、明確な判断過程を示すことさえできれば、最終的な判断結果はそこから自ずと導かれるおまけの様なもののはずである。判断の肝は「結果」ではなく、「過程」の側にある。だから、「容易ではない」と、これを放置するわけにもいかない。

今日は、まずその原因を言語化することで、判断力を身に着ける足掛かりにしたい。


1.練習不足
 1つ目の理由は至って単純で、要は「練習不足」。

 振り返ってみると、これまでの人生で「判断」を求められ、しかもその「過程」まで示すことが求められる経験は限られていた。
 学校の勉強では、単なる知識だけで対応できる場面も多々あったし、判断を問われる場合(例:法律の合憲/違憲の判断を問われる問題)でも、判断に至るまでの定型化された過程(例:違憲審査基準の設定→あてはめ)をトレースすることが多かったから、判断過程を自分の頭の中で構築する場面はやはり限られていたように思う。
 会社でも、若手でいるうちは、判断に必要な材料を提供することが仕事の中心で、判断そのものを求められる場面がそもそも限られていた。
 

2.「物差し」の欠如
 2つ目の理由は、上の経験不足とも相俟って、判断を下す際の「判断基準(=物差し)」が自分に欠如していること。言語化された判断基準がないから、個々の判断がアドホックになり、自分の判断過程に自信を持つことができない。
 「過去の取扱いとの一貫性を重視する」とか「事実との整合性を重視する」とか、判断に当たっては、自分なりの判断基準が必要になるが、自分にはこれが無い。いや、抑々、こうした判断基準の源になる「このような仕事をしたい」とか「このような職業人でありたい」というビジョンが欠落している。
 あらゆる考え方に対して客観的であり過ぎて、特定の判断基準を取ることができない。それはより根源的には、自分の価値観なり美学なりが欠落していることに由来している。
 
3.臆病さ
 3つ目の理由は、自分が「間違う」ことに対して臆病であること。
 特定の判断を「直観」に基づいて、あるいは「権威」をバックに根拠なく下せば、その判断に対して相手は反証しようがない。 
 しかし、判断過程を言葉で正確に表現すればするほど、それは相手にとっては反証可能性が高まり、自分が「間違う」可能性が高まることを意味する。
 自分の場合、これを極端に恐れていて、判断過程を示すことを躊躇してしまう。

 

 と、このあたりが差し当たり思いつく原因だ。まだ、曖昧な点も多いが、やはり言語化によって、自分の問題点に自覚的になれる。